【菱田春草 展 東京近代美術館】
去年の秋のこと・・すみません
肌寒いかなと感じていたころ、
日曜日は突然あったかくなり、タクシーもあわてて冷房ゆるく入れる始末・・。
そんな中、菱田春草の絵画展行ってきました。
明治時代、岡倉天心が校長であった東京美術学校に入校し、
下村観山、横山大観とは一級後輩だったそうです。
岡倉天心が東京美術学校を追い出されることになって、
彼らも天心とともに茨城の五浦(いづら)
に移って、そこで絵画の研究をしたことは有名な話。
そして朦朧体といわれる技法を推進し、
他の流派から批判等も受けることになりました。
展示には大観と春草の二人で一組の絵画等、
ほんとうに心引かれる作品がたくさんありました。
37才で夭逝した天才画家・・菱田春草
かの大観が、後に社会から賞賛を浴びての言葉・・・
「春草のほうがずっと上手かった・・・
・・・・彼が生きていれば、自分の絵は十年は進んだ」
良きライバルはお互いを切磋琢磨すること・・・そして天才は天才を知る・・・。

肌寒いかなと感じていたころ、
日曜日は突然あったかくなり、タクシーもあわてて冷房ゆるく入れる始末・・。
そんな中、菱田春草の絵画展行ってきました。
明治時代、岡倉天心が校長であった東京美術学校に入校し、
下村観山、横山大観とは一級後輩だったそうです。
岡倉天心が東京美術学校を追い出されることになって、
彼らも天心とともに茨城の五浦(いづら)
に移って、そこで絵画の研究をしたことは有名な話。
そして朦朧体といわれる技法を推進し、
他の流派から批判等も受けることになりました。
展示には大観と春草の二人で一組の絵画等、
ほんとうに心引かれる作品がたくさんありました。
37才で夭逝した天才画家・・菱田春草
かの大観が、後に社会から賞賛を浴びての言葉・・・
「春草のほうがずっと上手かった・・・
・・・・彼が生きていれば、自分の絵は十年は進んだ」
良きライバルはお互いを切磋琢磨すること・・・そして天才は天才を知る・・・。

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